鎌倉まんだら
1匹の甲虫が暴れ飛んでいる。ルリ色の鞘翅(サヤバネ)が忙しく朝陽を照り返している。サルスベリの花を散らし、救急車のサイドミラーをかすめ、夏だけ使われる噴水の水を弾いて飛び回っている。駐車場の端にイチョウの大樹が数本並んでいる。その下のベンチに座ろうとする女の足元すれすれを抜け、甲虫は垂直に舞い上がる。イチョウの大樹の上からクヌギの森に囲まれた総合病院の全貌を捉えると反転して急降下し、正面玄関脇の池の水面に尻で水しぶきを立てて錦鯉を惑わしている。ブウ~ンと唸る羽音の接近に驚いた女が、首をすくめてベンチから立ち上がり、恐る恐る振り返る。立ち上がった女の肩に軽く触れてバランスを崩した甲虫が、意外なほど近くでホバリングを始め、女は不安気にそれを見ている。けれど甲虫の複眼は女ではなく、最上階にあるひとつの病室を捉えていた。カーテンが揺れて、青い殺菌衣に身を包んだ男が現われた。遮光のグレーのカーテンを左右に開き、続いて窓ガラスを開けた。澱んだ空気とすれ違いに、まだ新しい朝の空気と陽射しが流れ込んで行く。甲虫はまっしぐらな光球となってその病室に飛び込んだ。間を置かず男が白いレースのカーテンを引いた。甲虫はロープから落ちたピエロさながら間抜けにレースのカーテンに深く突っ込んだ。外に跳ね返されそうになったが、それでも何とかしがみついた。体勢を整え六肢をふんばった。薄い後翅(うしろばね)を折り畳み、充分に陽光を含んだ鞘翅(サヤバネ)の下に納めた。病室にはふたりの男がいた。